20年、あっという間でした。
もうそんなに経ったのかと思う程、
昨日の事の様に思い出せるあの日の事。
あんまり暗い話はしたくないのですが、
自分の中でも風化させちゃいけない思い出なので
1年に1度、この日は家族と当時の事を思い出しながら
語り合います。
あの日、もし地震がなければ
3連休明けで学校のマラソン大会が開催される日でした。
その前夜、16日は家族で外食をしており、
帰宅した後、小さな震度1程度の地震があったんです。
寝る前の時間だったかな。
あ、地震だ・・・こわいな、と思ってたら父が
「もし地震が来ても、この家は古いけど
鉄骨がしっかり入ってるから大丈夫!」と
言ってくれたんで、安心して眠りについたんです。
そして翌朝、突然襲った震度7の大地震。
しかし・・・自分は寝てました・・・ので
本震の凄まじさを知りません。
自らは揺れの事については語る事はできないので、
父から聞いたその当時の様子を記します。
その時間父はトイレ(和式)にいたんですが、
まず、”ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・”という
ものすごい地鳴り音が聞こえたと思ったら
大きな縦揺れで突き上げられ、
しゃがんだまま体がジャンプしたらしく
「最初、ガス爆発でも起きたのかと思った」とのこと。
その後、凄まじい横揺れで目の前のパイプを必死に掴み
揺れがおさまるのを待ったそうです。
その間僅か20秒程度だったようですが、
非常に長く感じたと言ってます。
揺れがおさまった後、すぐ家族の安否を案じ、
お尻を拭く事そっちのけで母と子供達の所へ駆けつけます。
その間、ぐっちゃぐちゃになった台所や部屋を通ったため
父は台所に散乱していたガラスで
足の指を深く切ってしまいます。
必死すぎてその時は気付かなかったとのこと。
狭い家ですが、物がそこら中に散乱していて
母と子供が寝ている部屋に辿り着くのもやっとやっと。
まず一番深刻な状況だったのは弟でした。
と言うのもタンスの下敷きになり、
胸あたりが圧迫されていたようで呼吸が浅かったとの事。
我が家のタンスは古く上下に別れた重い木のタイプで
最初の突き上げの際に下側のタンスが跳ね上がり
半回転して前に倒れ、上側が弟の方へ乗っかていたようです。
(服も入っていたのでかなりの重量)
地震の恐怖で叫ぶ妹を母がなだめ、
父母二人がかりで何とか弟を救出。危機一髪、無事でした。
その間自分はと言うと、
洋服ダンスの上に置いてあった段ボールが落ちてきたものの、
命に関わる事はなく、
(なんか重い、誰だお腹の上に荷物置いたのは・・・
早くどけてくれないかな)と寝ぼけつつ思っていました。
しかし、しばらく待っても荷物をどけてくれる感じはなく
そのうちに妹の泣き声や喚く声、母がなだめる声、
父の必死の声を聞き、??何が起こってるんだ・・・?と、
いつもと違う朝の様子に、ざわざわと胸騒ぎがしました。
弟を救出した後、父は一旦玄関に行く様にと
子供達に指示をかけます。
ガラスの破片がそこら中にあるからまず皆靴を履けとのこと。
言われた通り靴を履いて、外の様子が気になったので
玄関で扉を開けようと鍵とチェーンを外したものの・・・
開かない。
扉が開かない?? って・・・閉じ込められた?
ますます恐怖が強くなります。
(後で分かったんですが、玄関の前に置いていた大きな縦長のロッカーが倒れ、扉が塞がれていました)
出られない玄関で寒さに耐えながら待っていると、
ゴォォー・・・という地鳴りの後に
突然震度4の余震。
これははっきり覚えてます。めちゃめちゃ怖かった。
電気もつかない真っ暗な玄関に突っ立ってる中、
震度4の揺れって子供じゃなくても結構キツいです。
今体験してもギョッとします。
しかも、その揺れが最初の大きな揺れ同様、
縦揺れからの横揺れで、まさかまたこの後に
大きな地震が起こるのではと思わせる揺れ。
怖くて怖くて、多分僅かな時間だったんだろうけど、
もの凄く長い時間に感じました。
けれど、とにかく耐えるしかないので
足元がぐらんぐらんしてる中、
その辺の物にしがみつきました。
暗闇の玄関で待っている時、
上の階に住むご家族が避難されていて
途中、『○○さーん!!!大丈夫ー?!』と2回程大声で
安否確認してくれたんですが、恐怖で声が出ず
返事をしないものだから、そのご近所さんも
『あかんわ・・・、行こう』と行ってしまいます。
そこで思ったんです。
『見捨てられてしまった』
仕方ないけどそれまで良くしてもらっていた分、
悲しかった。こんなにあっさり見捨てられるんだなと。
(皆、我が身が大事やもんな・・・)
こういう緊急時なら尚更、まずは我が身、
次に家族となるのは当たり前。
だから、自分の身は自分で守らなきゃいけない。
人を頼りにしてはいけない、自分がしっかりしなければ。
誰も恨んじゃいけない。
なんかそんな風に言い聞かせて、
自分を落ち着かせていたと思います。
大きな地震が起こったという事が分かったのは、
それからしばらくしてからでした。
電気も水道もガスも止まり、家の中はぐっちゃぐちゃ。
冬の6時前は薄暗く、辺りの様子も分かりません。
ただ、地震発生後しばらく(30分くらい?)
恐ろしいくらいの静けさだったことを覚えています。
血液が体を循環している音が聞こえてきそうな程
しん・・・・と不気味に静まり返っていました。
それから徐々に外の気配がしてきて、
普段聞かないような悲鳴だったり、助けて!誰か!と
叫ぶ声などが徐々に聞こえだしました。
明るくなるにつれ、何かとんでもない事が起こったという
ざわざわ感は大きくなる一方。
先に父が外の様子を見てくると出て行ったんですが、
しばらくして帰ってきて子供達に「外を見るな、」と
言うのです。
そんな事言ったって、こんな真っ暗な中
いつまでもいたくないし、外が明るくなったら
早くここから出たい、と思っていたので
大分明るくなってきた頃にベランダの戸を開けると
・・・何これ、夢・・?
目の前の光景がまったく理解できず、
最初に浮かんだ言葉はその一言でした。
家がない。
正確に言うと、周辺のコンクリ製のマンション以外
木造住宅はすべて倒壊していました。ぺちゃんこです。
通常であればベランダから見える風景といえば、
真正面に隣の家の壁があるだけです。
なのに、本来そこにあるべきものがなかったんです。
目の前に広がるのは何もない空間と
その下に散乱する木造住宅の倒壊した棟々。
舞う土ぼこり。
近所の人たちの悲しむ声、助けを求める声、
瓦礫を少しでもどけようとひとつひとつ動かす物音
がらんっ・・・、がらんっ・・・。
目前の現実離れした風景に何から手をつけていいのか分からず
なす術もなく、ただただ立ち尽くす大人たち。
きっと今の自分がその現場にいたとしても、
当時そこに立ちすくむ人たち同様に
思考停止状態になったと思います。
あまりに衝撃過ぎたため、
これは悪い夢だから、この後きっと覚めるはず!
と思い込もうとしたんですが
まぎれもない現実なので、いつまでたっても覚める事はなく。
混沌とした中ではありましたが、
少し冷静になった大人達がまず動き出します。
ご近所付き合いもあった時代なので、
無事だった人達同士はお互いの無事を喜び、
続いて周辺の人の安否を確認しはじめます。
場所が分かっていて助けられそうな人達は隣人同士で
協力して瓦礫をのけたりしながら
救い出していました。
さらに時間が経過し、隣のマンションに寄りかかる形で
ぎりぎり倒壊を免れていた木造住宅に
大変お世話になっている近所のおばさんが残されていた為
父が助け出し、我が家に避難していただき
皆で身を寄せ合っていました。
もちろん、こんな大惨事になったら学校も仕事もSTOPです。
ネットやスマホは勿論ないので
知りたい情報を調べる事もできず、
皆、自分達で考え、判断して行動していました。
まずは各々の安否確認、食料や暖の確保、
これから数日をどうして過ごすかという事を緊急家族会議。
電気、ガス、水道は全て途絶えていたため
食料は台所から食べれる物を寄せ集め、
暖は布団や毛布でくるまってなるべく皆で寄り添うこと。
水はたまたまお風呂に溜めていたのがあったので、
それでトイレを流したり、手を洗ったり。
飲み水は冷蔵庫にあったもので取り合えず我慢。
ライフラインが断たれるのがこんなにも不便な事なのだと
思い知らされました。
特に電気と水道が使えないのは非常に困るもの。
早急な復旧を望んだけれども、
電気は結局最後まで復旧に時間がかかりました。
地震当日は自宅で過ごしました。
1日のうちに何度も余震に襲われ、我々子供は恐がるばかり。
安心させる為にと母が絵本を読み聞かせてくれ、
それが気持ち的にとても救いになりました。
2日目は近所の小学校が避難所になっていたので
そこにキャンプ用のテントを持って行く事に。
(父母は野外活動をしていたので、得意分野)
小学校ではすでに多くの避難の方がいて、
寒いだろうと先に来られていた人たちが
たき火を焚いてくれていたりしました。
火の光が温かく、寒かったけれど他の人もいて
ホッとしたのを覚えています。
テントを組み立てる時真っ暗で苦戦していたら、
面識のない人が車のライトで手元を照らしてくれました。
自分たちだけじゃない、皆大変なのは同じなのに
助けてくれたんだ、と嬉しかったです。
人と人とのつながりが、こんなにも心強いのかと
感じさせられました。
3日目以降だったと思いますが、給水車がきてくれました。
空のペットボトルやバケツなどを持って
飲み水を確保してました。
ガスはまだ通らなかったけれど
父が持っていたアウトドアグッズで火をおこすものがあり
お鍋に水をはって味噌汁を作ってくれました。
震災以降、あったかいものを食べてなかったので、
めちゃめちゃ嬉しかったです。
あったかい食べ物を食べれるのがこんなにも幸せで
安心できることだったんだなと有り難さを痛感しました。
電力会社さんの必死の修復で4〜5日後くらいに
やっと電気が復旧したように思います。
久しぶりについた電気の明かりは、心細かった被災者の心を
どれだけ勇気付けて、安心させてくれたか。
いつもの明かりを見た時、泣きそうになりました。
当たり前の日常がどんだけ有り難いことなのかと。
けど、電気が通ってTVの映像を初めて目にして、
何度も繰り返される地震発生時の様子、
横倒しになった高速道路やビル、倒壊した建物、
燃え続ける長田の町の映像が流れる度にゾッとしました。
本当にこれが現実なんだと受け止める事が
なかなかできなかったです。
不安な日々の中、父がお世話になっていた知り合いの方が
心配して車で迎えにきてくださり、
その人の家で温かい鍋を頂いたり
(豆腐と菊菜のシンプルな鍋だったんですが、後に自分たちの中で
”震災鍋”と命名した程印象深い鍋でした)
お風呂も入れなかっただろうからとお風呂に入れて頂いたり、
有馬温泉に連れて行っていただいたりと,
大変お世話になりました。
その後も、田舎から車を走らせて
食べ物を届けてくれる人がいたり、
お見舞い金を持ってきてくださったり、
心配して訪ねて来てくれる人もいました。
その都度、有り難さを感じて、胸が熱くなりました。
あの頃を思い出すと本当に沢山の人達に助けられて
生きる事ができたんだと痛い程感じます。
震災では同級生や先生も多く亡くなり、
弟は親友を失いました。
同級生の中でも住んでいたマンションが全壊し、
同級生含む家族全員が亡くなられたこともありました。
エレクトーンでお世話になっていた先生も
娘さんを震災で亡くされ、
近所の木造住宅に住んでいた高校生のお姉さんと
そのお母様も亡くなり、
小さい頃からずっとお世話になっていた内科の先生も
震災でお亡くなりになりました。
1日でこんなにも多くの知り合いの方がこの世界から
いなくなってしまうなど到底、信じられないことでした。
改めて、心からご冥福をお祈りいたします。
本当に無念だったと思います、やりきれない思いです。
ですが、悲しい出来事で溢れかえる中、
一生のうちで何度も経験できない
貴重な体験ができたこともありました。
一番印象に残っているのは自衛隊のお風呂に入った事と、
プレハブ校舎で過ごした1年です。
自衛隊のお風呂は、とある中学校のグラウンドを借りて、
厚手の軍用レジャーシートで浴場や浴槽を作り、
そこにお湯がはられていました。
まさにテントの中、シートで出来たお風呂でした。
また、プレハブ校舎も貴重な体験でした。
授業が再開されたのはいつ頃だったかな・・・
3月ぐらいだったと思いますが。
クラス替えとかの時期だったので。
プレハブ校舎は、夏は暑く、冬は極寒です。
走ると揺れるし、雨が降ると滑る。
でも、変わった空間の中で受ける授業は新鮮で、
一番楽しかった1年でもあった。
(クラスも最高に良いメンバーだったので)
何より、友達に再会出来る喜びが大きかったです。
そんな感じで、話せば本当にキリがないんですが、
それだけ自分の中で記憶は未だに鮮明だということです。
20年も経つと、
震災の事を知らない世代の人がどんどん出てくる訳で、
今自分たちが戦争の事を聞くのと同じ様に、
体験してないけど話だけは知ってるという
出来事になっていきます。
けれど、伝えて行く事は大切な事だと思っています。
3.11の東日本大震災の事もそうですが、日本は地震大国。
地震についての知識は多い方が良いし、
実際どうすれば良いのか、
その時の為に日頃から何を心がけていれば良いのかという
事前準備ができます。
また、近年の異常気象で自然災害も格段に増えているので、
そこでも応用出来ると思います。
地震の事は辛い記憶ではありますし、
聞き飽きたという人もいるかもしれないですが、
いざ我が身に起こった時、
本当にああ、やっといてよかったと思える事は沢山あります。
なので、こんな話でも
考える材料にしてもらえたらと思います。
もしもの時の為に備え合った方が良いものなど
書いてあるサイトがあったので、
この機会にゼヒ覗いてみて下さい。
でも、こんな全部用意してらんねーよ!てなると思うので、
個人的に被災してホントに役に立ったリストを。
・水(ペットボトルで日頃から備えておくのが良し、お風呂に水はっとくのも良し)
・食べ物(保存出来る奴、カップ麺とか缶詰とか)
・トイレットペーパー(日頃から余分に買っとく)
・火が起こせるもの
・Victorinox
・懐中電灯(電池もストックしとく事)
・カイロ
・常備薬・湿布・バンドエイド
・ウェットティッシュ
・ゴミ袋(大小)
・軍手
・紙皿・はし・コップ
・ラジオ
・クーラーボックス
・水の要らないシャンプー
・マスク
・歯磨き
・スニーカー
後、意外と忘れ易いんですが
・女子なら生理用品は必須
・赤ちゃんがいるならミルク、おむつ、ベビー用品なども必須
・現代なら携帯用のバッテリーも必須ですね。
絶対要ります。
また思いついたら書き足します。
長くなりましたが、
20年という節目の年を迎えて色々改めて考えさせられました。
人との付き合い方も、普段から良い関係でいられるように
心がけたいものです。
お付き合い有難うございました!